展覧会ファルマコン 連鎖/反応 (Pharmakon Chain Reaction) プレスリリースvers.1

展覧会ファルマコン 連鎖/反応 (Pharmakon Chain Reaction) プレスリリースvers.1以下からダウンロードいただけます。

展覧会の見どころや出品作家について情報が満載です。
展覧会は12月8日からです。どうぞお楽しみに!
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Pharmakon Chain Reaction 2020/ ファルマコン 連鎖/反応

変貌してしまった世界。恐怖を煽る言葉の増殖。不可視の〈敵〉を遮断すべく、犠牲にされる日常──アートはこの煉獄から脱する道を、私たちに示しうるだろうか?

展覧会 :Pharmakon Chain Reaction (「ファルマコン––連鎖/反応」)

会期:2020年12月8日〜12月25日 月曜休、火水木日12時〜19時、金土12時〜20時
オープニングパーティ:2020年12月8日16時〜20時
シンポジウム:2020年12 月19日14時〜18時
会場:アトリエみつしま 603-8215 京都市北区紫野下門前町44 地下鉄烏丸線「北大路」駅から徒歩15分、市バス「大徳寺前」から徒歩5分
参加作家:エロイーズ・イルベール、入江早耶、大久保美紀、加藤有希子×児玉幸子、フロリアン・ガデン、ジェレミー・セガール、谷原菜摘子、堀園実、福島陽子、古市牧子
キュレータ:大久保美紀
主催:吉岡洋・大久保美紀
共催:アトリエみつしま

展覧会概要
世界は新型コロナウイルス感染による未曾有の状況が続いている。社会に蔓延する感染の不安や恐怖を煽る言説により、ウイルスの存在はあたかも人類にとっての「敵」/「侵入者」/「テロリスト」として認識されている。私たちは、自己防衛のためウイルスを絶対的に遮断しようと他者との接触を徹底的に避け、生活を犠牲にし、日常はすっかり変容した。ソーシャル・ディスタンス、新たな枠組み。煽動された恐怖は連鎖反応を起こし、さらなる恐怖を生む。私たちは見えない敵を前に文字通り震撼し、途方に暮れる。
だが、生命の注目すべき挙動の一つに、細胞の自死として知られるアポトーシスや一部の免疫反応など、それが一見正反対に見える活動を同時に行って平衡を保つという営みがある。そもそも生命体は膜によって自己と外界を区別すると同時に、膜に空いた多数の孔を通じて外界との物質や情報のやり取りするおかげで生存している。ある個体とは、他の生命体と複雑な関係性(あるいは連鎖)の中に存在するのであり、そのことは生存時も死後も変わらない。このような生命の本質を無視し、ウイルスを撲滅すべき敵として完全な衛生を目指す思考は不可能であるばかりか危険ではないだろうか。
本展覧会「ファルマコン:連鎖/反応」では、今日の私たちの身体が置かれた状況―「毒を一方的に排除する志向」―を問題視する。薬と毒という両義的意味を持つ「ファルマコン」の概念は、物事がしばしば持っている両面性(陰と陽、毒と薬、メリットとデメリット、効用と副作用、さまざまな言葉で言い表される「ある側面」と「それと補完的である側面」に着目する。私たちが「毒」とみなす存在を根本的に排除しようとするとき、私たちは世界が相反するものの均衡で成り立ち、それらが単に調和するだけでなく時には複雑に絡み合って全体を形作っているという事実を忘れ、そのことにより自らを生きにくくしている。
ファルマコンの概念に基づく芸術的アプローチを通じて世界を再考することによって、生命をより直感的に捉え直すことができるだろうか。
大久保美紀(キュレータ)

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プレスリリース ファルマコン 生命のダイアローグ2019

展覧会「ファルマコン :生命のダイアローグ」

プレスリリース vers.2019/11/30できました。以下のリンクよりダウンロードしてください。

<毒>は私たちに何をもたらすのか?

ファルマコン  「生命のダイアローグ」 Pharmakon : Dialogue de la vie
2019.12.8-12.25 12:00-20:00
オープニング  12/8  17:00-20:00 ゲスト:中島智(芸術人類学者)
クロージング  12/25 16:00-20:00
シンポジウム 12/22 15:00-17:30 講師:エルキ・フータモ(UCLA教授)
場所:京都大学 稲森財団記念館3階中会議室
参加作家:フロリアン・ガデン、大久保美紀、ジェレミー・セガール
( Florian Gadenne, Miki Okubo, Jérémy Segard)
キュレータ:大久保美紀
主催:京都大学こころの未来研究センター 研究プロジェクト「現代社会における<毒>の重要性」(企画代表者:吉岡洋)
共催:ギャラリー8
GALLERY8 神戸市中央区海岸通9番地チャータードビル2.3F 078・392・2880

☆オープニングレセプション 2019.12.8 17:00−20:00
ぜひお越しください!お会いできるのを楽しみにしています。
ゲストとして芸術人類学者の中島智さんをお招きし、トークがあります!お楽しみに!

プレスリリース 20191130_compressed

florian gadenne/フロリアン・ガデン, drawing “oe” について 3

ようやく、ドローイングそのものについて見て行こう。

まずはガデンが簡潔にまとめたドローイングについてのテクストを引用する。

「oeは、DNAの二重螺旋構造を基盤に構成された生きた建造物であり、それ自身が異なる器官(ミクロオーガニズム、細胞内器官、ウイルス、バクテリアなど)によって構築されている。

一見すると二元論的であるこの構造は、いわゆる「健全な」器官からなる上部、「病的な」器官からなる下部という二つの主部分によって構成されている。上部は、ブリューゲルの描くバベルの塔を着想源とし、<良方>へ向かっての上昇を表す一方、下部は、ボッティチェリが描いたダントの地獄を参照している。

また、この<良>と<悪>という二元論的概念が入り混じる三つ目の部分、つまり上部下部構造が接触する境界面では、ファージのような食細胞、エキゾサイトーシス(分泌)、変性や突然変異といった異なる反応が見られる。病的器官はいわゆる「健全」なるものに刺激を与え、それらに何らかの変異をもたらす。

oeを通じて、私たちは、恒常的に変化する生命の表現の、矛盾的で複雑なダイアローグを目の当たりにするだろう。」(フロリアン・ガデン、ブログより)

さて、先に紹介した「バベルの塔的細胞」の二つのドローイングとこの三つ目のドローイングでは根本的な構造の違いがあり、それはこのoeにおいてはバベルの塔の基底部分を境に、天へ向かって上へ上へと伸びていく塔に相反するつくりである地獄への構造がちょうど反転するように組み合わされている点である。実は、この上と下の組み合わせによって、ガデンは生命のダイアローグという主題について、対になるものを描き出すためのストラクチャーを見つけ出している。「バベルの塔的細胞」においては上へ向かう生命の営みを描いたが、反転したストーリー(地獄)をoe において補っていくことになった。

上部構造であるバベルの塔は、ブリューゲルが描いた「バベルの塔」を参照しており、実は、cellule babélienneには50cm×60cmの初期作が存在し(写真)これをみると、バベルの塔的細胞が次第に、人工的な建造物の形態から離れていく前の、ブリューゲルの描いた塔からの直接的参照がはっきり見て取れる。この最初のドローイングにおいて、頂点を核とする構造はoeに等しいものの、核に行き着くまでの徐々に登っていく道の中に、ゴルジ体やミトコンドリア、液胞などの構造がその内部に組み込まれる形になっている。そして、最も地に近い部分と核へ向かう最後の細い道などは、階段状の構造や窓のような構造が見られ、非常に建築的である。

oeにおいて、この上部構造には何が描かれているだろうか。頂点の<卵>から伸びる8本の鎖は、その内側に健全な細胞構成物を含みながら螺旋状に降りてくる。それらは次第に、毛細血管のなかへ絡みとられてゆき、その毛細血管は次第に変容し、赤血球や白血球がときには破壊されたり、コレステロールに侵されたりしながら、第三のゾーン(天へ向かう塔と地獄への入口が出会う境界面)へと向かっていく。

下部構造である地獄は、ボッティチェリが描いた「地獄の見取り図」を参照している。「地獄の見取り図」は、時獄篇、煉獄篇、天獄篇の3部からなるダンテの「神曲」の挿絵としてボッティチェリが描いた作品であり、地獄は漏斗状の逆円錐構造をとっていて、地球の中心に向かう形で9つの異なる環に別れている。9つの異なる環は、それぞれ生前の罪によって人々が振り分けられ罰せられる世界となっている。9つの罪の種類は、1から順に、洗礼拒否、好色、大食、貪欲、憤り、異端、暴力、悪意、そして裏切り。ガデンのドローイングにおいては、上部構造において、DNAの二重螺旋が毛細血管に変化したのちに、再びそれらが集まって、太い束となり、それらが撚る形で下へ下へと降りていく。その撚られた構造の中には、複数の<病的な>細胞や微生物が複雑に絡み合いながら、うごめく。

このように、なるほど一見して、ドローイングは、天に向かう上部構造と地の中心へ落ちていく下部構造である「バベルの塔」と「地獄」が、中心でピタリと合わされた構成をとっている。

さて、oe は、この構成が示すように、表現するもののレベルで、果たして二元論的な思想を体現しているのだろうか。ガデンは、自身の作品についてのテクストで、この二元論的な、つまり<善>と<悪>の対立構造について、「一見すると二元的だが、実は矛盾的で複雑な生命の営み」と表現している。この、複雑さについて言及するため、次の記事では、上部構造と下部構造の出会う三つ目の部分、境界面について着目してみたい。

florian gadenne/フロリアン・ガデン, drawing “oe” について 2

oe について 2

作品oe dans l’oのロゴといったらいいだろうか、サインというべきだろうか。このシンプルでありながら多義的な記号はoe dans l’oの表すものをとても単純にしえている。ドローイングの複雑さに対して、この記号の簡潔さは面白いほどである。

まず、oe (dans l’o)というタイトルについて、ガデンのプロジェクト説明の記述の助けを借りて、読み解いてみよう。oe は二つのアルファベットから構成され、フランス語では日本語の母音「う」の舌の位置をキープしたまま「う」と「え」の間くらいの口のすぼめ具合で発音してみるといい感じのoeの音が出る。この母音は、合字の母音で、フランス語では古代ギリシャからの借用語に使われて来た。そう知って探してみるとどの単語が古代ギリシャ語からの借用語かわかって面白い。ガデンの説明に沿って例をあげてみると、例えば:

œcuménique »:全世界的な、普遍的な。インド・ヨーロッパ語やサンスクリット語における家族や家に相当し、ギリシャ語においては遺伝的に結ばれる部族と関係がある。

œil” :目、視覚器官。目のような形をしたあらゆるもの、たとえば動物の毛皮にある目玉のような模様や、孔雀の羽の模様、蕾や芽。

œuf” :卵、卵子。

œuvre” :作品。女性名詞として、具体的に行われた仕事(ergon)。錬金術の分野で男性名詞として用いられ、卑金属を金に完全変換する、あるいは賢者の石を想像する「大作業」を意味する。

fœtus” :胎児、出産、新生児、世代。ちなみにfeはインド・ヨーロッパ語で「乳を飲む」ことに関係がある。たとえば、fécond(多産), femme(女)に共通。

さて、oe (dans l’o)は、その構造の頂点に一つの卵子を持つ巨大で複雑な建造物である。卵子を取り巻くのは8つの精細胞で、それらは卵細胞から遠のくにしたがって次第にDNAの二重螺旋構造として翻訳される。錬金術において卵は宇宙の創造を象徴すると同時に金属の変質を意味する。<世界の卵>(oeuf du monde)、すなわちあらゆるものの起源はエジプト神話を含め世界の数多くの神話に登場する。

卵(oeuf) は成長して胎児(Foetus)となる。ドローイングoeの記号には明確に胎児(foetus)が据えられている。 またドローイングの頂点は、生命の起源としての<卵>(錬金術における世界の卵とも卵子とも取れる構造)が君臨している。(写真)

florian gadenne/フロリアン・ガデン, drawing “oe” について 1

oe について 1

今日からは数回にわたって、フロリアン・ガデンの巨大ドローイング“oe”について、論じていこうと思う。

フロリアン・ガデンの公開制作の巨大ドローイングを昨年2018年12月に京都の想念庵でご覧くださった方々は思い出していただけるだろう。この作品は、昨年京都で展示された際 cellule babélienne 3 と題されていた2メートル×4メートルのドローイングである。想念庵では、制作中のゾーンの上と下の部分は巻物上に巻かれていて、全体をご覧にならなかった方もいらっしゃったかもしれない。実は今年、本作品は完成(予定)の形での世界初展示を予定している。展示は、神戸のギャラリー8で12月に展示となる予定だ。

この作品は、昨年のタイトルがcellule babélienne 3 であったように、バベルの塔神話にインスピレーションを受けており、構造の上半分は天に向かうバベルの塔の形状を基礎としている。cellule babélienneというのは、ガデンが2016年から取り組んでいるプロジェクトのタイトルであり、「バベルの塔的細胞」を意味する。プロジェクトといったのは、ドローイングのみならず、彫刻やインスタレーションなど(写真)バベルの塔的細胞のコンセプトを多様に展開して来たからである。せっかくの機会であるので、まずはcellule babélienne に通底するコンセプトについて書いておきたい。


聖書のバベルの塔神話におけるバベルの塔は、天へも辿り着けると過信した人間の驕った心の象徴として描かれ、天まで届く塔を築こうとバベルの塔の建設を進める人間たちの言語を、それに怒った神がバラバラにしてしまい、人間たちは相異なる言語を話し、彼らは意思疎通ができなくなって、バベルの塔建設は行き詰って、塔は崩壊してしまう。

ガデンの絵画「バベルの塔的細胞」では、その複雑で巨大な建造物は多様なミクロオーガニズムで構成されている。核のような構造を頂点に、複雑な構造の生物建築がその中にミトコンドリア、ゴルジ体、葉緑体などの多数の器官を含んでいる。構造の規定部分は、まるで根が張っているかのような細かな繊毛が見られ、描かれていない「地」を思わせる。また中間部には小胞から水泡のようなあるいは粒子のような構造が放り出されており、神経系の情報伝達とか細胞間の物質のやりとりとか、そのような営みを想像させる。絵画としての「バベルの塔的細胞」は1.5メートル×2メートルのものがこれまで二つ描かれており、不作めはちょうど一作目の上下をひっくり返したものでその名も「クローン」と名付けられている(写真)。

 人間は複数の言語を話すが(その数は時を経るにつれ減少している)、遺伝情報を翻訳する自然言語である遺伝のコードは、世界中どこでも共通だ。DNAに基づく遺伝子の言語は、古代の化学的なバベルの塔として姿を現したのだ。

          “alors que les hommes parlent plusieurs centaines de langues ( en diminution avec le temps), le code génétique, le langage de la nature qui traduit les gènes en protéines, est le même partout. le langage génétique, fondé sur l’arn et l’adn, a émergé de la babel chimique des temps archéens.”

                                         lynn margulis et dorion sagan – “l’univers bactériel” – p.57. ed.albin michel 1986.

バベルの塔は第一に言語の混乱の神話を象徴し、つまり唯一で絶対的な言語を失うことであり、それはある意味で崩壊の最終段階を表す。楽園を追放された人間は、あらゆる能力を手放さずに済んだ。彼らは、神の言語、つまり宇宙におけるあらゆる存在様態(無機物、植物、動物、人間)の言語を理解する能力を所有することになった。人間はしたがって言語の科学を操る。(略)神に向かって堂々と、自らの権力と意思を見せつける。この塔は、時空間を経て行われた人間と神のやりとり、つまり、人間の果てしない高慢心とそれを打ち負かした神の勝利を我々の目の前に明らかにしているのである。

la tour de babel symbolise avant tout un mythe: celui de la confusion des langues, donc la perte d’une langue primordiale unique et originelle. c’est en quelque sorte la dernière étape de la chute. chassé du paradis, l’homme a conservé sa toute-puissance: il connaît le langage des dieux, autrement dit, il possède la faculté de comprendre le langage de tous les états (minéral, végétal, animal, humain) de l’univers. l’homme maîtrise alors un science des mots et du verbe sans égale [..] c’est l’affirmation face à dieu, du pouvoir de l’homme, de sa volonté inépuisable. cette tour, qui défie le temps, l’espace, les hommes et dieu est l’expression d’un orgueil illimité, du moi triomphant”.

l’art visionnaire, michel random, p; 88-89. 1991.

blog: florian gadenne

京都新聞11月24日朝刊-美術-「ファルマコンII」

京都新聞11月24日朝刊の美術欄に展覧会「ファルマコンII アート×毒×身体の不協的調和」について<「毒」の両義性改めて考える>(加須屋明子教授ご執筆記事)ということで掲載していただきました。
本展覧会、残すところ本日と明日、11時から19時まで(13-14時除く)開催しております。
本展覧会では現代社会において、見て見ぬ振りや避けて通ることのできない、食の安全や環境と身体の関係性、医療と私たちの関わりなど大切な問題について、「毒」の両義性をもう一度考え直してみることを通じて問題提起しています。
皆様にご覧いただき、ご意見をお伺いしたりお話ができますのを楽しみにしています。
どうぞ、お気軽にお立ち寄りください。
会場は、想念庵(左京区田中里ノ前町49-2)。京都大学界隈を少し北上いただき東大路通沿いから東に入ってすぐ、最寄りのバス停は飛鳥井町です。電車では叡山電鉄元田中駅か少し歩きますが出町柳が便利です。
ぜひお越しください!
(La traduction d’article en français en bas)

« Pharmakon » est un terme d’origine greque, désignant la double signification : poison et remède. Dans l’histoire humaine, nous avons découvert de nombreuses substances qui fonctionnent comme médicament dans l’usage approprié mais aussi qui peuvent causer un effet négatif, voire même poison dans l’usage à l’excès. Le poison n’est un simple élément à exclure, mais il joue souvent un rôle indispensable pour notre vie.

L’exposition « Pharmakon II – l’harmonie dissonante d’art/poison/corps » nous permet de refléchir sur cette nature ambiguë de poison. Conçue par Miki Okubo, curatrice-artiste, l’exposition montre aussi le travail de Jérémy Segard, florian gadenne et Akira Inumaru. Toute la durée de l’exposition, l’œuvre de florian gadenne intitulée « tour babélienne » continue à s’évoluer. Inspirée par « Tour de Babel » de Brugel et Inferno de Botticelli, la tour s’élevant vers le haut s’habille des organes, dit « sains » et celle descendant vers le bas habitée par des éléments « pathogéniques ». La zone de rencontre de ces deux derniers telles différentes activités de phages, sécrétions et mutations minutieusement et dynamiquement remplit la toile. Nous sommes également surpris par l’ensemble des images de microorganismes exposées dans son lieu de travail comme « atlas », ainsi que son univers.

Akira Inumaru, artiste basé à Rouen et Paris, présente la nouvelle série « Pharmakon » où avec une loupe distillant les rayons solaires, il brule des illustrations transcrites depuis l’encyclopédie des plantes médicinales édités au Moyen Age comme s’il juxtapose la lumière d’aujourd’hui sur celle du Moyen Age. Son travail montre une complexité visuelle – couches de papiers brulés, images des plantes couvertes par l’ombre de la racine.

Jérémy Segard, exposant une installation de textile usé, questionne sur l’excès de la stérilisation et le processus de la blanchisserie vus souvent dans les établissements médicaux. Il montre ainsi l’ensemble de dessins préparatoires concernant la question sur l’espace vert. Miki Okubo mettant en lumière l’acte de « manger », présente des pains faits à partir de la levure cultivée, c’est-à-dire, sans utiliser la levure industrielle. Elle nous invite à réfléchir à ce que nous mangeons, comment nous devons l’équilibrer, ainsi que ce qui est la nourriture qui peut être un remède ou un poison.

Chaque artiste joue sa propre poésie afin de déchiffrer un monde s’opposant – double signification qui s’échappant du discours dualisme, pour réussir à mieux percevoir notre monde basé sur une écologie complexe.

Akiko Kasuya, Professeur des Beaux-Arts de la ville de Kyoto
(traduction Miki Okubo, florian gadenne)

Pharmakon II/展覧会ファルマコンII いよいよラスト3日となりました!

皆様、いよいよラスト三日となりました、展覧会「ファルマコンII アート×毒×身体の不協的調和」@想念庵(京都市左京区田中里の前町49−2)
本日も作家在廊(大久保、フロリアン・ガデン)で19時まで開館しています。明日、明後日も11時−19時(13−14時を除く)皆様のお越しをお待ちしています。
公開制作の「バベルの塔的細胞3」インタラクションゾーンを超えて、地獄ゾーン入り、目が離せません。パンも随時増えています。どうか、足をお運びいただけましたら幸甚です。

クロージングの25日の午後は皆様にこれまで面倒を見ていただいた酵母を元にパンを焼いて試食します。お誘い合わせの上ぜひ、いらっしゃってください。

Last three days of our exhibition “Pharmakon II” @Sonen-an, Kyoto.
Please come to see us! The last day, Nov 25th in the afternoon, you will taste natural yeast breads (cultivated during the exhibition). Please join us.

Pharmakon II /ファルマコンII 11月25日まで!!!

展覧会ファルマコンII アート×毒×身体の不協的調和 残すところあと一週間!水曜日から日曜日まで毎日11時から19時まで(お昼休み13時−14時)開館しております。
会場は左京区田中里ノ前町49−2「想念庵」にて。飛鳥井町のバス停からすぐ。皆様のお越しをお待ちしています。

会期中制作のフロリアン・ガデンの大作「バベルの塔的細胞3」も面白くなってきました。この細胞では、ブリューゲルも描いたバベルの塔神話が上部に描かれ、卵子を世界の創造の起源とするDNAの二重螺旋構造をとっており、下部はダントーの時獄篇(ボッティチェリが描いていますね)を思わせる病変した細胞器官やウイルスなどが登場しています。複雑に絡み合う生命の活動が、一見二元論的に描かれますが、そこには一面的には語り得ない矛盾した反応や不協の中にあるハーモニーが描き出されています。フロリアン・ガデンの制作は会期中ずっとご覧いただけます。ぜひ、2メートル×4メートルの大作を間近でご覧いただけましたら幸いです。

最終日である25日には大久保美紀のインスタレーション「何を食べるのか」に関連して、野生酵母のパンの試食もあります。このインスタレーションでは、情報過多かつグルメと食の衛生と安全に悩む私たちの現代の身体がいかに生きるべきかを模索しながら、ある物質や行為はしばしばファルマコン的である(=薬にも毒にもなる)という両面的側面を再考することを通じて、食べることと生きることを見直します。プロジェクトに寄せたテクストはこのブログにも掲載しました。
何を食べるのか text miki
お読みいただけましたら幸いです。

それでは、残すところ一週間となっておりますが、引き続き、多くの皆様にご覧いただけますことを期待しながら皆様のお越しをお待ちしております。

大久保美紀

何を食べるのか / “what feeds us”

何を食べるのか / “what feeds us”

何を食べるのか / “what feeds us”は、<食するという行為>そのものを思考します。食の衛生と安全は、それが直接的に私たち の健康状態へと影響を与えると教えられている今日、多かれ少なかれ誰もが関心を抱いている主題であるにもかかわらず、多 忙な毎日を送る私たちにとって、田舎での自給自足生活が遠い夢なのは言うまでもなく、産地や生産者を熟知した上で選択し た食材から日々自炊することさえも簡単ではありません。時々は<体に良くない物>を自覚的に食するというのが私たちの現 実です。あるいは、<健康に良い>と言われる食を熱心に追求しすぎたり、食生活にマニアックになりすぎたりした結果、却 って健康を害するケースもあります。酒やタバコのような嗜好品は、毒と薬の両面性を語るファルマコンの典型的な例であり、 その摂取方法の選択とバランスの制御が重要であることは明らかであるにもかかわらず、その選択や制御を外部化せざるを得 ないほどに、私たちの身体と食(あるいは体内に物質を摂り入れる行為)の関わりが不透明となり、食を通じて身体を理解す る感覚は不明瞭になっています。 本インスタレーションでは、培養した様々な自然酵母を利用してパンを作るプロセスを通じて得た、実験的な調理結果や現代 の食に関する思考を、自然酵母パン・酵母採集果実・ルヴァン・培養酵母・写真・テクストによって紹介します。パンは古代 エジプトより主食として発展を遂げた重要な食物であるにもかかわらず、現代ではほぼ完全に産業化されており、食品添加物 や糖類を多く含むふわふわの菓子パンですらない、ごくシンプルなバゲットや食パンについてすら、一体何を食しているのか、 私たちはほとんど知らないのではないでしょうか。 会場に置かれたガラス容器には、果物や野菜から採取した酵母菌が培養されています。酵母菌は毎日室内の空気を吸うことを 必要としています。時々は糖分も欲しています。どうぞ蓋を開けてお部屋の空気を混ぜ込み、エネルギー不足の時は砂糖を入 れてあげてください。皆さんが培養に協力してくださった酵母は、11 月 17 日(会期中レセプション)と 25 日(クロージング) の日にそれを原種にしたパンとして焼き上げ、試食をしますので、ぜひいらっしゃってください。

***
「食べる」という日常的でとりとめのない行為の、その自明さが失われたとき、私たちはふと、わたくしの身体に摂り入れ、 消化し、吸収されて私たちを生かしているのは何者なのか、想いやることになります。「食べる」行為は、私たちにとってた だ一つの身体に直接作用しながら、何かを及ぼしたり変容させたり破壊したり、つまりは私たちの命そのものに深く関わって いるに違いないのに、「食」は私たちにとって曖昧で不安定な対象であり続けます。

私たちは、慌ただしい日々の生活のなかで、食品衛生と食の安全に関して溢れるほどの情報を得ながら生きています。「健康 食品」や「健康的な生活習慣」にマニアックな人が必ずしも完璧な健康体を維持しているわけでも強靭で安定した精神状態を 保っているわけでもなく、一方、一見気ままで自由な食生活を送っている人がいわゆる「生活習慣病」とは無縁の生き生きと した身体を楽しく生きていることもしばしばです。

私たちが手に取る食材は、本当は顔色が悪いのに無理して熟れさせられた野菜とか、十歩と自由に歩いたことのない環境で育 ったふわふわで脂っぽい肉とか、加工されすぎて素材の原型を留めないレトルト食品とか、つまり、素材そのものの良し悪し を見抜こうにもそれが叶わないほどそこから遠ざかってしまっているために、味とか香りとか自然の色ではなくて、成分表示 のビタミンとか、カロリーとか、カルシウムとか、数字化された情報や、パッケージに「書かれた」フレーズを鵜呑みにして、 消費するに至っているものばかりです。

中国古代医学を基礎に食による養生を唱える実践である「食養生」の基本的な考え方に、「風土性」と「自然食」があります。 命ある食べ物を頂くことを説く一物全体食および食材は自らを育んだ土地のものが良いとする身土不二の考えに沿って食生活 を営むよう意識することは、マスメディアが伝えている今日と明日でガラリと変わってしまうかもしれない健康にいい食べ物 の情報に流されて右往左往するよりも遥かに確からしい拠り所を私たちに与えてくれるでしょう。

私たちの食は、したがって、なるべく身近で採れた自然のままの食材を利用するのが望ましいのに、数千キロも旅して来るヨ ーロッパのミネラルウォーターをわざわざ購入して飲んでいるように、日本では育たない熱帯の果物を頻繁に食べているよう に、高級な輸入加工品を好んで探し求めて消費しているように、おかしな努力と矛盾した健康志向に満ちています。

私はヨーロッパに住んでいるので、遠くから運ばれて来る日本の調味料や日本の野菜に敢えて固執しないことにしています。 今日、日本産のお米も手に入るけれど、日本で炊く方が遥かに美味しく感じますし、日本米を真似た米種もありますが現地の 素材と調味料で調理するとなんだかしっくりきません。一方、日本で生まれ育ったので、バターやクリームたっぷりの料理を 何年経ってもフランス人ほどうまく消化できないし、バターに強烈な甘みが加わったデザートやビスケットとココアの甘った るい朝食は体が受け付けないのを感じるので、今もしょっぱい朝食を摂り続けています。

「食べること」を思考する中で、食べられるものと食べられないものの境界にも関心を持つようになりました。食の安全の話題に戻りますが、私たちの多くは、食品パッケージに記された「品質保持期限」に従ってその食物が消費可能か不可能かを決めており、色を見たり、匂いを嗅いだり、味を確かめたり、自分の身体を通じてその可否を判断することを欠いています。なるほどそれは便利な情報ですが、季節や気候によって、保存条件によって、あるいは個人の体質によって消費可能か不可能かは異なります。ある人に腹痛をもたらしたものが別の人になんの症状も引き起こさない可能性も大いにあります。腐っている
か腐っていないかを知りえないのは私たちが飽食の時代と空間に身をおいているからこそ問題にならないにすぎません。食物が枯渇するような危機に置かれた時、それがある程度安全に摂取可能かどうか知り得ないなんて、動物としてあまりに脆弱ではないでしょうか。

同様に、食のマーケットに完全依存する私たちの向こう見ずな脆弱さに気がつくことは、主食の確保についても考えるきっか けを与えてくれます。パンを主食にする人々がいます。米を毎日食べる人々がいます。トウモロコシ粉や小⻨粉で作ったクレ ープを主食にする人々がいます。イモを毎日食べる人々がいます。私たちの多くは、主食とは毎日食べるものなのに、これら を自らの手段を通じて手に入れる手段を全くと言っていいほど持っていません。日々炊いている米がどの地方の田で育ったか、 使用されている小⻨の産地がどこか、その程度の情報は、私たちがもし何かのキッカケでこれを自らの方法で再現しなければ ならない時、ほとんど役に立たないでしょう。私たちは、現行の産業化された食品市場に絶対の信頼を置いて、それが機能し ないような事態には為す術もなく共倒れする覚悟で、日々それを全力でサポートしています。しかし、それはとりわけ怠惰な ことではなく、都会生活の全てを捨て、田舎で農業を営み自給自足の人生を送ろうと決断することは、今日の様々な社会的・ 経済的文脈を考えれば、極めて難しいことは明確です。では自分だけでなく人類全体で歩んで行こうではないかと、どこかの エコロジストのような理想を掲げても、ひとたび高度に組織されて分化された産業世界が再び退行して非先端化の道を辿るこ とはありそうにありません。

しかし、私たちの日々の生活において何を食べるのかという問題について、このまま思考停止を続けるのが難しいのも確かな のです。これ以上その問題を無視し続けることは私たちの身体に重大な影響を及ぼし、その身体を抱えて生きることで私たち の思考すらも危機的な状況を迎えてしまうかもしれません。

パンはビールとともに古代エジプトが発明した二大発酵食物です。そこでは酵母菌が使用され、ご存知のように小⻨粉と混ぜ て時間を置くと生地が膨張し、膨らんだ小⻨粉の塊ができます。それを焼けば、気泡を含んだパンとなります。今回の私の実 験的プロジェクトでは、小⻨がどうやって私たちの手元へやって来るか、おそらくもっとも大切なプロセスを残念ながら無視 してしまいました。今回は、生地を膨張させる酵母菌を食材から採取するところから出発し、それを様々な環境で培養してパ ンの原種を準備していますが、そこでは多くの失敗も起こりました。酵母菌以外の菌が繁殖し、酵母液が真っ白になってしま うこと。酵母の発達が未熟であったり、明らかに腐ってはいないけれどパンが膨らまないこと。原種の発酵が進みすぎて酸味 の過剰なパンが焼きあがること。また、自然酵母のパンは市販のイーストパンより遥かに可食期間が⻑いことやテクスチャー の保存の点で優れていることなど興味深い観察もありました。

私たちが身体に摂り入れる食材は、一概に薬とも毒とも言えない曖昧な存在であるので、私たちはそれらのエネルギーと向き 合い私の身体を理解することを通じてそれらを本質的に受け入れることができる。小さな問題提起が、そのようなきっかけと なることを願っています。

(大久保美紀)