12/23 本日最終日 C’est le dernier jour

展覧会「ファルマコンー医療とエコロジーのアートによる芸術的感化」は、本日をもちまして、閉幕いたします。本日、京都・大阪の両会場におきましてよる19時まで開催しております。すでにご覧いただいた皆様も、まだご覧いただけておらず関心をお持ちいただいておりました皆様も、どうぞ、お時間のご都合がよろしければ本日、会場にてお待ち申し上げております。

本日は、大阪会場に堀園実がおります。
午後14時過ぎから16時頃までCASに、午後5時ころより閉幕までターミナルキョウトにフロリアン・ガデン、大久保美紀が在廊しております。みなさまのご来場をお待ち申し上げております。

お急ぎでのご連絡等ございましたら、garcone_mk アットマーク yahoo.co.jp までご連絡いただけましたらと存じます。

それでは、最後まで、どうぞよろしくおねがいいたします。

大久保美紀
2017年12月23日

Merci beaucoup pour votre visite, merci beaucoup pour votre soutien. L’exposition “pharmakon” ferme sa porte aujourd’hui à 19h à Kyoto et à Osaka, nos deux lieux.
Les artistes sont présents: Sonomi Hori à Osaka, florian gadenne et miki Okubo 14h30-16h à Osaka et 17-19h à Kyoto.
Nous sommes ravis de vous voir ce dernier jour de notre exposition et nous renouvelons nos remerciements du fond de notre coeur pour votre encouragement, générosité et aide pour cette réalisation.
Ravis de vous voir à tout à l’heure..

Miki Okubo
le 23 décembre 2017

workshop “nanimo nai demo nanika aru”, 報告会 12/18

明日2017年12月18日、15時からターミナルキョウトで、ワークショップ”nanimo nai demo nanika aru”の活動報告会を行います!参加者・提案者・協働者からの報告、ディスカッションを行います。どなたでも参加していただけます、ぜひお越しください!よろしくお願いいたします。

寄生者【ルビ:パラサイト】に想うー世界中のおしっこの痛みを代わってあげることができたなら

展覧会「ファルマコン」の実践ととくに今回展示させていただいている作品「プラセボ候補」と「要らない効能」に関わって今年の初めころに『有毒女子通信』(Toxic Girls Review)のために書いたエセイを掲載します。有毒女子のために書いたのですが実はまだ未発表エセイなので、初公開です。変なタイトルですが真面目なエセイです。清潔とはなんなのか、衛生であることとはなんなのか?本当に体が喜ぶこととはなんなのか?私たちは、隅々まで経済的に商業的に支配されたメディカル環境にあって、それを知りうるのか?
お読みいただけたら嬉しいです。

寄生者【ルビ:パラサイト】に想うー世界中のおしっこの痛みを代わってあげることができたなら
                                大久保美紀

ここ二三年、ジェレミー・セガールというフランス、ナントを拠点に活動するアーティストと共に、ナント大学附属健康研究機関IRSと恊働プロジェクトを実現しており、感染症の最先端の研究や個人化された医療のための新たなメソッドの普及に対してアートを通じて考察しながら、とりわけ「衛生」(Hygiène)のあり方について議論することがしばしばある。公衆衛生と生活習慣についてはかねてから思う所があり、今回のエッセイを通じて異なる方法で考え直すことができればと筆をとる。歴史において人類を苦しめた伝染病蔓延の原因は公衆衛生の不十分な発達と見なされ、この水準を向上し、バクテリアや細菌による伝染病の猛威を食い止める方法を発明することはおよそ人類が医学を発達させる最も重要な原動力であった。世界初の抗生物質ペニシリンは1929年の発明以降第二次世界大戦中に膨大な戦傷者を感染症から救った奇跡の薬として知られ、抗生物質というメソッドは20世紀を通じて発明、実用化、改良、使用の拡大(あるいはその濫用)を辿る。
多くの先進諸国において、とはいえ、若い世代に見られる清潔への脅迫的執着は、感染症の脅威よりもむしろ、文化的・教育的に形成された衛生概念に由来する。毎日朝晩シャワーを浴び、「デオドラント」(無臭化)を徹底し、僅かに残る体臭をカムフラージュするため香水やオーデコロンの香りをプンプンさせるのが今日の洗練された市民に要求された身だしなみである。「デオドラント」は<déodorant>=「臭いの除去」意味するが、日本では一般に体臭や腋臭を防ぐためのスプレーを指す言葉として知られる。「デオドラント」は、酸化した皮脂が温床となって繁殖するバクテリアを予め「殺菌」し、皮膚を化学的に乾燥させ、自然な発汗を抑制することによって体臭を阻止する。
汗の臭いと聞けば、何が何でもこれを無臭に近づけたいと頑張るのが今日の社会的風潮だが、極端に強い腋臭を放つ腋臭症(わきがとも言われる)は今日治療可能な遺伝性疾患として認知されており、そうでない限り、せいぜい、「不快」にはほど遠いかすかな体臭に過ぎない。加齢臭やらちょっとした体臭をマニアックに嗅ぎ取り差別しその人があたかも不衛生であるかのように見なすのは不穏な集団意識だ。そのような風潮は我々の肉体を、その表面だけでなく内部まで、どんどん殺菌剤まみれにしかねない。
熱心に髪や身体を洗い、脅迫的な清潔概念を生きながら、同時に我々は様々な機会に、身体なんて数日洗わないほうが良い、シャンプーやリンスのつけ過ぎは頭皮や毛髪に悪い、コスメティックを地肌にべったりつける代わりに自然な頭皮の状態で放っておくほうが育毛にも結果的には良さそうなことなどを、知識としては耳にしている。洗うと言えば、日本のトイレは国際的にも評価が高く、排尿後や排泄後、肛門や性器周辺をよく洗浄することができるが、排尿・排泄後毎回洗い流すのがほんとうに身体のためなのか、一度、お尻に聞いてみたい。
これから話すことは恐らく何の自慢にもならないが敢えて書く。私は三日に一回くらいしかシャワーを浴びない。特に冬はもっとインターバルがある。手は時々洗うがうがいはほぼしたことがない。風邪をひかない年もあるし、鼻風邪程度をひく年もある。インフルエンザに感染していると診断された事はこれまで一度もない。三日目に仕方なくシャワーを浴びるのは、身体を洗う必然性を身体的に感じるためで、この切羽詰まった感じが結構大事とすら考えている。何となく洗わないのではなく十分意識的にこれを実行しているのだ。というのも、環境における人間の自然な適応能力たるものをナイーブ信仰しており、頻繁に風邪をひいたり、様々な外的要因(環境や食物)に対してアレルギー疾患が発症する原因の一つには、身体が自然に持つ抵抗力を化学的・物理的に失ったり、身体がそれを取り巻く環境にありのままに晒される機会を十分に享受してこなかったことがあげられると思っている。
とは言え、最近非常にドキドキした事件を通じて、身体を晒すことにも限度があるということを知った。我が家では兄妹猫を二匹飼っており、彼らは子猫のころから家の中もご近所も寝室を除いて自由に出入りしている。子どもだった彼らも成獣となり大層毛が抜けるようになっていたらしく、猫はじめ動物の毛アレルギーがなく、基本的にややソバージュ(野性的)な環境で生きることこそ身体を鍛えると真面目に信じて積極的に掃除を怠っていた私と家人は、程無く数える隙間のないくしゃみの嵐に見舞われた。我々の仕事部屋は薄いカーペットが敷いてあるのだが、これが限界までに彼らの抜け毛を吸収したために、猫の毛に対する我々の身体的許容量を超えたと考えられる。これでもかと言うほど猫の毛と埃にまみれたカーペットを除去し、一度床を大掃除した後には誰もくしゃみしなくなった。身体を鍛えるにも限界がある。
もうひとつ、近頃深い哀愁の想いにしみじみする機会を与えてくれたマイコプラズマの話をしたい。性感染症の話題は一般にシビアで、『有毒女子通信』ほどの媒体でないと書こうかなあともなかなか思わないので、せっかくだから綴っておく。性感染症には、HIVウイルスやB型ウイルス肝炎のような深刻なものもあれば、クラミジアなど不妊を引き起こす感染症、カンジダ菌(真菌)が女性に痒みや不快を引き起こすものから、自覚症状も具体的な害も殆どないような感染まで様々だ。
我々の身体は可視的にも不可視的にもミクロレベルで多種の細菌やウイルスが寄生することを許す宿主として存在しているのだなと思うとき、なんだか素敵な気分になる。寄生者は宿主が居ないと生きられないのだが、宿主はたとえ寄生者が出て行ったとしても淡々と生き続けることが可能だ。かといって寄生者は常にまったく貧弱な存在ではなく宿主に「インパクト」を与え、その性質を「変容」させる潜在性を持つ存在でもある。ただ一つのゲームのルールは、「寄生者は宿主を(前提として)殺さない」。
これと言う性感染症に悩まされた事はないが、上述のように女性に症状が現れない感染症もあるので気がついていなかったのかもしれない。マイコプラズマやウレアプラズマというのは性行為によって感染するウイルスの一つで、不妊や流産の原因になるほか男性の尿道炎を引き起こす。欧米では即刻抗生物質を処方し抹殺されるウイルスだが、日本ではそこまで敵視されておらず欧米ほど頻繁に見られる訳でもない。ある出来事がきっかけで、マイコプラズマに感染していることが分かり、有無を言わさずこれを除去することになった。海外に暮らし、国が違えば治療や投薬、病の認識や理解において非常に異なること、それらは時代的である以前にかなり文化的であるということを理解してはいたのだが、「私の身体が何か良くないものに侵されている」という自覚症状がないとき、自らの身体に寄生する、今のところ私の身体にいかなる害も与えていない寄生者を抹殺するのはなんとも暴力的な経験であった(ただし、パートナーが排尿の痛みに苦しんでいるなど具体的な不都合がある場合には言うまでもなく除去する以外の選択肢はないのだが)。

ウイルス抹殺は抗生物質の仕事だが、奴らに好感を持つのは難しい。そもそもAntibiotics=バイオに対してアンチであるというその名前も身体に悪そうだ。副作用や拒絶反応で苦しんだことが何度もある。抗生物質は又の名をAntibacterial drugという。バクテリアは身体に悪いのだろうか?人類発の抗生物質で奇跡の薬と言われたアレクサンダー・フレミングのペニシリンの発見。奇跡のお薬である抗生物質もそもそも青カビ由来ではないか! 抗生物質のおかげで、平均寿命は伸び、脅威から解放されつつあり、人類は幸せである。だがそれらは常在菌にも作用しこれを殺すのでバランスが崩れ、他の細菌や真菌が爆発的に増加することもある。また生き残った菌が耐性化するので濫用は命取りだ。

そんなわけで私も私の身体の寄生者を殺すために抗生物質を服用し、その効果を待ったわけだが、私がその憐れな細菌を失った時(排尿の際、言語化を拒むある種の痛みにより彼らが私の身体を去ったということを理解した)、少し悲しくとても寂しく感じられたこと。私の身体はもはや彼らが寄生できない環境に作り替えられてしまった、抗生物質というケミカルなお薬によって。そしてそのプロセスは、不可逆性なのだ。そう考えて悲しくなったけれど、細菌撲滅のためにわざわざ治療をしたのにそんな事を言うのは不謹慎だから、そして不謹慎だと思いながらこの身体感覚を誰かにどうしても打ち明けたくてパートナーにはおしっこをしながら「さようなら」と丁寧に言ったことなどを何となく話したけれど、それ以来誰にもこの事は話していない。
自らの身体が寄生者にとってもはや住めない場所となったことを、悲しく思うほかもっと救いのある思考は可能だろうか。恐らくそれは「治癒」とは何かを思うことである。疾患が治ることが本質的に意味するのは何か。彼らが住めなくなった私の身体は、何が癒えたのだろうか?世界中のおしっこの痛みを私が変わってあげる事ができたなら、彼らを殺さずに済んだかもしれないとすら、思う。

KABlog ファルマコン : 医療とエコロジーアートによる芸術的感化

KABlogに、展覧会記事「ファルマコン : 医療とエコロジーアートによる芸術的感化
「薬」=「毒」という両義性から身体の健やかさを問い直す」が掲載されました!!!
Kansai Art Beat Articles
野村敦子さんによるクリアな解説です、ぜひお読みいただけましたら幸いです。

Symposium Pharmakon/シンポジウム「ファルマコン」

オープニングの日でもあった2017年12月1日、京都会場のターミナルキョウトで、「ファルマコン」をめぐるシンポジウムを開催いたしました。スピーカーは、埼玉大学の加藤有希子先生、京都大学の吉岡洋先生、そして参加アーティストのJérémy Segard, florian gadenne, Evor, わたし大久保美紀がモデレータを努めさせていただきました。

Jérémy Segardからは、彼がこれまでアーティストとして行ってきた医療機関との協働の様々な経験についての発表がありました。Jérémy Segardは、バイオロジーとアートを学び、ナント市の美大で芸術修士をおさめ、現在はグラフィスト、アーティスト、建築学校講師という複数のキャスケットで活躍しています。彼の創作において、医療機関とラボラトリーとの協働はその活動の核といっても過言ではありません。Jérémy Segardは自身で立ち上げたLotokoro(ロトコロ:ナイジェリアの原住民族の言葉で「医学」に相当する意味を持つ)というアソシエーションを通じて、先端医療の研究者、臨床医、患者、パブリックそして、アーティストを結ぶ活動を展開しています。とりわけ彼の関心は、アレルギーと感染症をめぐる環境との関わりや身体を取り巻く空間をどのように理解するかにあります。

また、Evorからは自身の創作における視点とファルマコン的なものへのリンク、とくにミクロとマクロの視点の融合によるパースペクティブのずらしの実践、わからないもの、未知なるもの、理解しようとすればするほど離れていってしまうものへポエジーを用いてアクセスする手法など、作品を通じて発表がありました。今回展示している作品の中では、京都会場の地下室の薄暗い空間に浮かび上がる不穏な星空のようなインスタレーション、Nourritures celestes (星座的食糧)の制作のきっかけについて、六ヶ月間に渡って行われたアンジェの病院内アーティストレジデンスの経験、患者や患者家族との交流を通じて、あるいはアーティストとして病院食を食べて病院で眠るという特殊な経験を通じて得られた経験についての発表がなされました。

florian gadenneは特にエコロジーの領域から、マクロとミクロ、異なる種の生命間、異文化、異言語、異大陸を横断するアナロジーを通じて、現代の新しいエコロジーについて考える芸術的アプローチを紹介しました。キノコの菌糸と人間が水運を頼りに気づいた文明の広がりと肺胞、真核細胞の構造と地球の内部構造、原生生物の形状と星雲といった一見偶然に見えるミクロとマクロの視点を横断するアナロジー。しかし、このアナロジーは単なるメタファーでも偶然的インスピレーションでもないことを、自身の一連の作品Cellule babélienne(バベルの塔的細胞)を通じて解説します。cellule babélienneは、動物細胞と植物細胞の細胞構成物から成る「塔」のような構造物です。人間の驕り高ぶった野心に神が怒って人間の言語をばらばらにしてしまう以前、共通言語による調和状態があったというバベルの塔の神話を読み替えて、今日ヒトという種は地球中に繁茂して地球環境を破壊するウイルスのようであり、ヒトはあたかも他の種を隔てる特殊な存在として自らを認識しているが、遺伝子コードを見てみれば、生命を支配するそのコードは人も植物もバクテリアも、同じ言語により記述されているということがわかります。

加藤有希子先生のご講演では、「新印象派のファルマコンーあるいは新しい時代の幕開け」と題し、ホメオパシーとしての色彩療法の発見と、<平衡>や<補完>といった重要概念の理解、相反するものを捉える可能な視点、さらにはファルマコン的ものと幸福の関係について、示唆深いお話をいただきました。加藤先生は、デューク大学美術史表象文化学科で博士号(Ph.D)を取得され、2012年ご研究をまとめた『新印象派のプラグマティズム』を出版されています。とくに、お話しいただいたホメオパシーの色彩療法と補色の考えを応用した幸福な生のための色彩応用については、第三章:新印象派の衛生・医療ーその色彩論との交点を中心に展開されています。

また、最後にお話しいただいたのは京都大学こころの未来センターの吉岡洋先生で、ファルマコン的実践としてご自身の毒ある活動のいくつかをご紹介いただきました。例えば、シンポジウム当日ハンドアウトでお配りいただいたのは「毒娘」というエッセイ(こちらで全文をお読みいただけます)で、松尾惠さんと私自身が関わっている批評誌『有毒女子通信』(Toxic Girls Review)の第8号に掲載されたものです。ホメオパシーとみなせるのかどうか、インドに伝わる昔話だそうで薄めた毒を体内に注入し、耐性ができると毒を強めていくことを繰り返し、体液が猛毒の「毒娘」を作り上げ、これをいわば兵器として利用するような想像力です。また、私たちの大きな関心事項であるアートマーケットやエコノミーサイクルに回収されない芸術活動の可能性について、芸術の社会的応用の模索とその有用性の考察は、「ファルマコン」の大きなテーマの一つでもあり、非常に興味深いお話しがありました。また続くディスカッションでも議論のテーマとなりました。

展覧会「ファルマコン」の輪郭について、少しずつイメージをお持ちいただけたでしょうか。会期は2017年12月23日までです。どうぞご高覧ください。